「乾杯」は幕末から開国後の明治時代、外国要人との接触の中で輸入されてきたものと思われますが、当然、その機会の多い軍部から規定が生まれてきたようです。
「觴」という字は「しょう」と読み、訓読みでは「さかづき」と読ませますが、明治三十四年発行『陸軍士官学校・曲禮一斑』の「食事半ばに至れば、まず主人は客に対し、次に客は主人に対しその他賓客相互に觴を挙げ、その健康を祝するものなり。(略)正式の会にありては、多くは主人この觴を把り、起立して衆賓に謝辞を致すを常とす。是時に在ては衆賓も亦随て起立し、礼意を表するの後之を飲むを以て例とす。(略)数等上級の者に対しては起立注目して、之を挙げ飲み尽して後、更に其人に注目して再び少しく觴を挙げ、之を上に置き坐に就くべし」のように、宴半ばにおいて杯を挙げることが行われていたことが伺えます。
一方、海軍では明治四十五年発行、海軍少佐市川節太郎著『東西接待要訣』に「卓上の演説等ありて、主人がシャンペーンの杯を挙げて健康を祝し、若しくは皇帝、大統領等の万歳を唱うるがごとき場合には、客もまた起立して之に応ずるものとする。上賓が主人を祝するときも亦同じ」とあります。
明治三十八年上野に於ける日露戦争凱旋式では、曾祖父小笠原清務によって、東郷元帥に昔ながらの方式に則った凱陣の式が執り行われました。武人の作法が自然に世の中に受け入れられ、大正三年発行された松崎双葉著『礼儀作法精義』には「正客と主人の立つを見れば一同も立ち上がり、共にコップを捧げ、正客と主人との側に居るものは、コップを主人のコップに触れ、遠きものは只捧げて触れる真似をして皆飲み干して仕舞うので、之を挙觴の礼或いは乾盃の礼とも云うのである」とありますように、現在、日本で行われている「乾杯」が定着したものと思われます。 |