お酒を飲まない日はほとんどありません。
何しろ六歳の時から飲んでいるのですから。
今から何十年前(?)の東京は本当に寒くて、下町では11月のべったら市、酉の市が冬の始まり、北風がぴゅーぴゅー吹いて、枯れ葉がからから音をたてて町を舞い、寒さに震えながら暮らしました。
暖房機など無い時代です。火鉢と炬燵で暖をとり、あとは綿入れの袢纏やウサギの襟巻きが子ども達の冬着の定番でした。
とりわけ朝の寒気は厳しく、起きるのも学校に行くのもとてもいやでした。
「これを飲んでお行き」
祖母がくれたのは馬蹄杯の形の小さなおちょこにいれた「日本酒」
「きゅっと引っかけていきな」
むろん酔わせるためにくれたわけではなく、身体が温まるということの気の利かせ方でしょう。職人の我が家には酒が切れるということはありませんし、みんな酒飲みでした。
一日の区切りとして飲んでいましたし、祭りや縁日、盆暮れ、慶弔と何らかの行事が日常茶飯事にあり、私達子どもも風邪を引けば薬は卵酒でした。
朝から手間もかけられないので、さっと酒瓶から注いでくれたのです。
その少量のお酒が本当に嘘のように身体を真から温めました。
ほんわか良い心地で一時間目の授業が始まります。すこし顔を赤くしたところで私のクラスは芸者の下地ッ子や鳶の息子などがいるので、特別様子が変と感じることはないのです。
第一、家業を継ぐと未来が決められているのですから、学業に必死になるという事は無いのです。芸者屋の子は何をやっても、しなとこぶしが得意だし、鳶の子は町内に火事や喧嘩が起これば直ぐ早引けしてしまいます。屋形船の子はかき入れ時にはいつも船の上です。どこかで日本酒くらい飲んでいたかもしれません。
そういえばしもやけのきつい子は瓶に入れた日本酒をもって来て、休み時間に手足に塗っていました。私達もおこぼれをもらって顔などに塗っていた記憶があります。
従ってわたしとお酒は切っても切れない縁にあるのです。
あの頃、終戦直後に子ども時代を送った私達にはこどもなのに子どもといった自覚が薄かったのかも知れません。大人達が復興に躍起になっている、その姿を見、少しでも大人に近づきたいと思い、呑んでいる大人達のそばでちょっと盗み酒をして、大人の気分を味わっていたのです。考えればとても良い時代でした。暮らしの中で大人も子どもも一緒、共に寄りそっていたという気がするからです。
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