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イラスト:さとう有作 |
「お神酒あがらぬカミ(神)はなし」という。
日本のまつりでは、酒が不可欠である。まず、カミに供え、そのあとそれを下げて人々が相伴する。酒は、カミとヒトとが「相嘗(あいなめ)る」最高のごちそうなのである。
その儀式を「直会(なおらい)」という。とくに、同じ甕(かめ)、あるいは樽の酒を飲む。カミとヒトとの親密な関係。それによって、私たちは、カミへの祈願が通じ、カミからのおかげを授かった、とするのである。直会は、日本のまつりの大きな特色といってよい。
五十串(いぐし)立て、神酒(みわ)すえ奉(まつ)る神主部(はふりべ)の、雲聚(うず)の玉蔭(たまかげ)、見ればともしも(『万葉集』巻一三)
『万葉集』には、この種の歌がいくつもある。もっとも古く、酒は、まつりの日にあわせて造られたことが想定できるのだ。
なぜそうなのか。その酒を、米を醸した酒と限らなくてもよいが、以後の歴史的な経緯からして、やはり米の酒が主役である。
かつて、米は貴重な食材で、米だけでつくったものは、何よりのごちそうであった。酒に限らず、白い餅も白い飯も、まつりの神饌の最上位に供えられる。なかでも酒は、もっとも手間のかかる工程を経ており、最上のごちそうとされたのである。
お神酒を下げての直会が、まだ各地のまつりによく伝わる。現在(いま)のところ、ビールやワインを神饌とする例は皆無に等しかろう。が、まてよ。お神酒は神前に供えたままで、はじめからビールをすすめるまつりの後座(あとざ)を最近見たことがある。それは、直会というほどにあらたまった席ではなかったが、年長者の誰もが異議を唱えなかったのは不思議なことであった。
お神酒を一巡させて、はじめておかげが分配されたことになる。それが「礼講」。そのあとなら、燗酒でもビール・ワインでも飲めばよい。それが「無礼講」。礼講あっての無礼講なのである。 |