戦後70年、遠い昔の長い時間が過ぎようとしている。
それでも振り返れば、まるで昨日のことのように鮮明な記憶もまばらに蘇ってくる。
昭和18年、私たち一家は父を除いて全員母の実家に疎開を始めた。私は三歳、姉は八歳、祖母は矍鑠として健在、母も若くきれいだった。
疎開地は福島県小名浜、長い銀砂(浜辺ではそうよばれていた)の先に真っ青な太平洋の海が広がり、いつも季節の風がわたっていた。海は陽にきらきら輝き、漁船の行き来は平素と何も変わらない・・・と幼い私は無邪気に思っていたが、戦時のことで大人たちはそれなりの苦労の中にいたはずだ。
祖母が大衆食堂をしていたせいで食物には全く困らなかった。もっとも海という天然の倉庫からの恵みが味方にいてくれたせいもある。
私はここで実にのびのびと幼児期をすごした。多くの人に守られ可愛がられ、たらいまわしに親戚を回され、そこでわがままいっぱいに育てられた。
おしゃべり人形のように面白かったらしい。
ときどき父が東京からやってくると親戚中が集まった。
どぶろくや日本酒がふるまわれ、日頃むっつりしている漁師たちも歯ぐきを丸出しにして笑い転げていた。父は落語家より面白く、芸事も達者で端歌や小唄も交えて話題には事欠かなかった。母は「全くいやだ」とそっぽを向いていたが、父の運んでくる「陽気な都会」はそれだけで緊張感をほぐしていたのではないだろうか。
海鳴りだけの日常の娯楽を父も心得ていた節もある。
父は父で病弱もあり兵役を免れていたことを後ろめたいという意識でいたのだ。
久が原にあった土地を軍需工場に供出し、その見返りで工場長になっていた。浅草橋の若者は父の推薦でここに勤めていて、戦地にはいかないで済んだ。後で感謝されたが、父は戦争に行けず病気で死んだ弟の面影を彼らの上に重ねていたのかもしれない。
若い人は死なせてはいけないと。
子供は、いずれ大人になるので、全部過去の謎解きができてくるにようだ。
戦後の70年は毎日謎解きしても飽きることはない。そのつど、風景や懐かしい人の顔がまぶたに浮かんでくる。自分の顔や姿までも。
|